2000年の音日記


はじめに

日本サウンドスケープ協会のミレニアム企画として「1999年最後に聞いた音/2000年最初に聞いた音」というものを募集しました。私も応募しましたが、これをきっかけに2000年は音日記をできるかぎりつけてみようと思います。(平日はなかなか難しいですが)

最初にオノマトペで音を表し、そのあとに文章で状況の描写をするというスタイルで書いて行きます。

1月の日記 2月の日記 3月の日記
4月の日記 5月の日記 6月の日記
7月の日記 8月の日記 9月の日記
10月の日記 11月の日記 12月の日記

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サウンドスケープ協会に応募したもの

1999/12/31(金)-2000/1/1(土)

がやかや。ハハハ。ウーン。ゴトンゴトンゴー。スー(シュー?)。アケマシテオメデトウ!。

大晦日。テレビではいろいろなイベントを中継している。2000年の幕開けということでイベントに参加するため外で過ごす人も多いのだろうが、家は子どもが小さいこともあり、テレビを見て過ごす。いつもの年末と特に変わらない。

紅白歌合戦が終わったところでテレビの音を消して耳を澄ましてみた。除夜の鐘は聞こえなかった。近くには鐘を撞く寺はないのだろう。聞こえたのは、こたつのファンの音。そして終夜運行する鉄道。家は北陸鉄道から100mほどのところに建っているのでよく聞こえるが、運行数も少なくうるさいと思ったことは一度もない。この鉄道に乗ると、加賀一ノ宮の白山ひめ神社に行くことができる。きっと初詣客を大勢乗せてにぎやかに走っている事だろう。

テレビも見飽きたのでそろそろ寝ることにする。子供部屋をのぞいてみると2人の子どもはぐっすり寝ている。子どもたちの健康がやはり何よりうれしい。翌朝、子供たちが私の枕元に来て、大きな声で言った。

「あけましておめでとう!」

そういえば、2000年なんていう時は本当に来るものだとは、子どものころは考えたこともなかった。SMAPの歌ではないが、あのころの未来に私は確かに生きているということが不思議な気がする。

 


最近の音日記


12/2(土)

ジュー。シャキン、シャキン。

研究会のあと何人かのメンバーと近くの店でステーキを食べた。目の前で焼いてもらう。2つのへらを使って肉や野菜を扱う時にぶつかり合う音が出る。この音も魅力のひとつである。雰囲気も良いし、おいしい肉だし、言うこと無しだ。

12/3(日)

ガサ、ガサガサガサ・・・。

クシャ、クシャ、クシャ。公園を犬を連れて散歩する。小さな枯葉がいっぱいあるところでは、歩くたびにガサガサと音がする。プラタナスの大きな枯葉を踏むとクシャッと輪郭のはっきりした音がする。夏には風になびいてやわらかな音を立てていた同じ葉だ。

12/5(火)

ヒューゥー・・・。ゴト、ゴトゴト。

このところ最高気温が10℃以下の日が増えてきた。どうやら完全な冬モードに入ったようで、季節風も吹き出した。サッシの隙間がうなりを上げている。ときおり、窓が揺らいでがたついている。

12/7(木)

チリンチリン・・・。

いつもは弁当を持ってきているのだが今日は、外の定食やさんで食事をすることにした。ドアを開けると、チリンチリンとベルが鳴る。以前は無かったと思うのだがいつのまにか吊る下げたようだ。

12/9(土)

バウン、ゴーゥ・・ボアッ、サー。

はくたかに乗って東京へ。車体剛性があまり高くないせいだろうトンネルに入ると強い圧力を感じる。ゴゥーという音がふっとやんだ。トンネルを抜けたようだ。耳を締めつけていた気圧が、突然緩んだ感覚に顔をあげる。窓の外を見ると海があった。にび色の冬の海。飛行機だと窓を見ても雲だけだったりしてがっかりすることも多い。ドラマチックな風景の変化は列車ならではだ。

12/10(日)

ブルブル・・・・。プー。ゴーゴルゴル・・・・、ガタンガタン。ガサゴソ、パカッ、シュッ。

東京出張に引き続き大分へ。豊後竹田の廉太郎記念館に行くためだ。大分で乗り換えた列車はディーゼル機関車一両編成。発車までの間アイドリングがブルブルと響く。ワンマン列車は電子音の合図とともに出発。

記念館で係員に名刺を出して挨拶。私はこういうものです。

12/12(火)

サラサラ・・・、バラバラバラ・・・。

昨夜からの雪は時折霙に変わってはばらばらと窓を打つ。谷内六郎の絵にあったな。「雪あられが障子をたたく」小さな鬼がでんでん太鼓を叩いているみたいだとたとえてあった。障子が直接あられに打たれるような家屋構造は日本にはもうすっかりなくなってしまったが、彼の感じた郷愁だけはかろうじて私の心の中にも残っているようだ。

12/14(木)

プルル、プルル・・・、プルル、プルル。

来年度から研究室の電話が交換を通さずに直接つながるダイヤルインに変わるらしい。研究室のパソコンにダイヤルアップ接続するのも可能になるかも。

12/15(金)

カラン。ギッ、ギッ。キコ、キコ、キコ。

この間、初雪も降った事だし、今日の朝急いでスタッドレスタイヤに変えた。

12/16(土)

カチカチ。ガヤガヤ・・・。「かんぱーい」。バリッ、メキ。

今日は大学全体の忘年会。片山津温泉に来ている。仲居さんが運ぶビールの音が人のざわめきの中から浮き立つように聞こえている。挨拶はよいとしてとにかく乾杯。料理の中でうれしいのはやはり蟹!恐らく冷凍で、型も小さいがそれなりにおいしい。

宴の半ばでは、演歌歌手の歌や飛び入りのカラオケといったアトラクションが披露されるが、PAの音量が大きすぎて耳が痛い。宴会というと大抵こうなってしまうのはどうにかならないだろうか。

12/20(水)

(子供の歌声)

子供は歌を覚えるのが早い。テレビの主題歌を歌詞カードなどを見ずに覚えてしまう。自分自身もそうだった覚えがあるが、最近ではそんなに一生懸命歌を聞くこともないせいか、歌はまったく覚えていない。

12/23(土)

キャハハハハ・・・

今日から小学校は冬休み。子供たちは昨日あたりから機嫌がよい。兄弟でふざけあって楽しそうだ。

12/24(日)

ピービギギギガーカー・・・。

休みの日だしイブなんだが、締め切りがある。メールを自宅から読むためモデムでパソコンをつなぐ。通信速度がだんだん速くなるにしたがって音質が変わってくるのが内蔵スピーカから聞こえてくる。

12/26(火)

カチャカチャ。パチ。カキ。

子供のクリスマスプレゼントはゾイドのプラモデル。組み立てるのは少々複雑で小学校一年生では無理なので、私が作ることに。パーツが多くて部品を探すだけでも一苦労。枠からねじりとっては少しずつ組み立てる。

12/29(金)

ガヤガヤ。ザブーン、ザブーン・・・。

市内の温水プールと温泉のある施設が大人1000円と特別料金の期間だったので遊びに行く。大盛況で人のざわめきが響く。天井の高い大空間の上に、プールという場所柄あまり吸音材が使えないので非常に響きやすい。大勢の監視員がいて、ハンドマイクで時々注意したり、休憩のお知らせをするのだが、とても明領度が低くて聞き取りにくい。

波の出るプールは、波打ち際で波に打たれるのも深いところでただ揺られているのも楽しい。子供たちとどれくらい長く水中にいられるか競争。

12/31(日)

スガー、ゴー・・・。ガシャ、ガシャ。クープ、クープ。シャカシャカシャカ。コーン。

少しくらいは大掃除せねば。まずは、掃除機を一通りかける。家具の配置を少しいじる。ビデオデッキのケーブルを捌く。コード類は結構硬くて、背面の壁や棚のボードに当たってガシャガシャする。それから、私は浴室にとりかかる。カビ取りを吹き付けブラシでこする。普段は気にしていないが結構汚れはたまるもんだ。外壁を見るとペンキもかなりはげてきた。来年は少しメンテナンスをしてゆかないと。

夜は家族でゲームをしたりテレビを見てすごす。時々紅白歌合戦も見てみるが、どちらが勝ったかとかはまったく気にならない。紅白が終わったあたりでどこからか除夜の鐘がなっているのに気が付いた。少し高めの音。どこの寺だろうか。最近はいろいろなイベントも多く行われ、カウントダウンという言葉も季語の中に入れられるようになったというが、まだまだ除夜の鐘は年末を感じさせる音だ。きっとこれから先も途絶えることはないだろう。

とても個人的な20世紀の音<サウンドスケープ協会企画の一環として>

 せっかくですから私も自分の記憶の中の、20世紀の音を探そうと思いました。普遍的な20世紀の音というのもあるのですが、自分自身が聞いたものではない音についてはどうも書く立場にないような気がして、タイトルのごとく“とても個人的な「20世紀の音」”を書いてみようかと思います。

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 私が生まれ育ったのは横浜市の郊外。近世以前からの歴史のある土地ではあるが、元々わずかばかりの田園と山林に囲まれた貧しい村だった土地がほとんどである。それが戦後になって開発が進み、スプロール化現象で住宅地が広がってきた。そのような住宅の中に私の生まれた家はある。

 父も母も他県からの移住者である。高度経済成長前、まだ、時代は貧しかった頃だと思う。夢のマイホームであったのではないかと思う。借金も当然あり、教員の父の収入だけでは厳しかったのか、物心ついた私は、両親の内職する姿をよく見ていた。1960年代後半だった。

 どんな仕事だったのかというと、ラジオやテレビの電子部品やコードを取り付けるための基盤の端子を作るという、まったく末端の下請けの内職だったのではないかと思う。まだ電気製品は真空管の機械がほとんどだったと思う。テレビはかなりの家庭で普及していたがまだ白黒で、カラー放送が主体になっても随分と長いこと白黒だったような覚えがある。

 当時のテレビは真空管だったので、スイッチを入れてから実際に映るまで30秒くらいかかった。見たい番組があるときなどじりじりしながらテレビの前で待っていた。今はパソコンの前で待たされることが多いがこれもあと10年もすると「昔はパソコンは立ち上がるのに3分くらいかかって、しかもよく動かなくなったもんだ」なんて思っているのかもしれない。

 ともかく、その頃は戦後の復興期、いわゆる高度経済成長期の初めであり、世界に向けてメイドインジャパンをまさに売り出そうとしていた頃の話である。

 両親が請け負っていた端子形成の仕事は二つあったと覚えている。ひとつは、手動のプレス機で金型どおりに端子を曲げる仕事である。ハンドルをカックンと一回転させると、金型のオス側が上下して、メス側の金型に乗せた小さな平たい金具が型どおりに曲がる。 もう一つは、端子の下地の半田付けである。ニクロム線の電熱器の上に鉄の小さな坩堝を置き、半田の延べ棒を融かしておく。ヤットコで5ミリくらいの小さな端子をつかみ、半田の付が良くなるペーストを付け、融けた半田の中に端子の先端だけを「じゅっ」とつける。わずかな煙が上がり脂のこげる匂いが漂う。

 余分な半田を落とすため、半田のつぼからあげるとすぐさま鉄の台(ただの鉄の塊だったように思う)に「ガチッ」とたたきつける。これで一つ出来上がり。出来上がった端子は「カラン」と小皿に載せられる。「ジュ、ガチッ、カラン。ジュ、ガチッ、カラン。・・・・」音はリズミカルに続き、未処理の端子は山のようにあって、いつまでも終わりそうにないような気がした。

 内職のための作業部屋は、幼い頃の私の遊び場にもなっていた。台にこびりついた余分の半田は、カポッとはずれ、楽しかった。半田の延べ棒は30cmくらいの長さがあったので、おもちゃの刀がわりにしていたこともあった。「手をはさんだら大変だよ」とか、親たちが注意をする声を背に聞いたりしながら、いろいろな工具(ノギス、巻尺、ルーペなど)をおもちゃにしていた。

 子供の頃は、時代背景など思いも及ばないが、時を経てみるとよくわかる。こういう内職が戦後の高度経済成長を支えていたんだろう。そして、いまでも作業机に向かって背を丸めていた母の姿を、あの頃の声、あの場所の音とともに、ありありと思い出すことができる。


copyright Yoshio Tsuchida